WEB写真界隈(長文です)

先日、写真家の内原恭彦さんに、インタビューを受けました。デジカメWatch内のWeb写真界隈http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto/)の第7回に載っています。
以下の文章は、内原さんとドトールで話したこと、普段から思っていることをもとに、自分で考えて文章にしたものです。

まず、Web写真界隈について、所属や無所属といったことがあるのかどうか、聞いてみると、無いということなので、Webで写真を発表しているサイトは、だいたいWeb写真界隈であろうと思われます。僕の認識では、その中でも、写真学校の学生や、Webを発表の中心にしているような写真家、とくにブログなんかを使用していると、よりWeb写真界隈っぽいと思われます。ということは僕もとてもWeb写真界隈っぽいということになります。

 僕は学生の頃(2000年?)からWebに写真を載せてきましたが、その頃はフィルムで撮ったものをスキャンしていました。理由はすごく簡単で、デジカメを持っていなかったからです。200万画素のデジカメを買ったのが、2003年で、今でもメインのデジカメは200万画素です。そのデジカメを買ってから、遊びのページとして始めたのが「デジタルデイズ」であり、今のギャラリーのNEWの方です。OLDの方にも、デジカメを買ってからは、デジカメによる写真になっていきました。
それとは別に個展などの作品はWORKSに載せていて、とても複雑なサイトになってしまっていると思うのですが、アーカイブこそがWEBの素晴らしいところだと思っているので、どうしたものかと悩んでもいます。
 デジカメを買ってすぐ、僕もその日に撮った写真をその日にアップするという行為を続けました。なんとなく一日8枚ずつ載せていたのですが、一日中撮って、やっと8枚選べるかどうかというものでした。当然、人に見せられるようなものではないという日もあり、それを無理矢理続けることは、「毎日撮って載せる」という意味でしか無くなってしまうと思い、毎日することは止めました。ただ撮るだけじゃあつまらないと思い、「つまらない写真」とサブタイトル?をつけています。それとは逆に、15秒の無音の動画が撮れる機能はとても楽しかった。写真が動くみたいで。デジカメを持つことで、確かに世界は広がりました。QTVRや、gifアニメが手軽に作れるようになった。ちゅうちょ無くシャッターが切れるので、チャレンジするといことも増えたと思います。
 そのころ始めたのがデジタルパパスです。毎日一枚ずつその日の父の写真をアップしていこうというのが基本コンセプトでしたが、今年の二月に亡くなってしまったので、終了してしまいました。父にはWEBに載せること、また2004年のガーディアン・ガーデンでの個展「父さん、そのジャージ 僕のです。」も秘密で行いました。ひょっとしたらばれてるんじゃないかとも思いましたが、最期まで知らなかったようです。父と僕は団地で二人で暮らしていたのですが、父は退職してから家で過ごすことがとても増え、朝からビールを飲み、コタツで寝てばかり。ぼくが出かける前と帰ってきてからが、ほぼ変化がなくて、この様子を写真にずっと撮っていったら同じ写真がずらっと並んで面白いんじゃないかと思いました。あまりにも無限ループに入り込んだら止めるんだろうなと最初は思っていたのですが、当然父の生活にも微妙な変化があって、続けることにこそ意味があるんだと思うようになりました。あと、沖縄に居る僕の兄貴へ見せたいということも大きかったです。
では父と関係の無い人たちにはどうデジタルパパスが受け止められるのか。それは僕にも分かりませんでした。父をこう見せよう、というような僕の「意思」は、なるべく排除して、ありのままの父が出るように気をつけました。なので、写真のセレクトもなるべくしたくありません。2年半の写真の中から何枚かを選ぶことで、選者の「意思」が表れてしまうことは僕の意図するところではありません。個展では、大きく伸ばす写真もありましたが、それは、順番に並べたときに、たまたまその壁面に並んだ写真を大きくしました。父をより身近に感じてもらえるよう、たまに日記に父の言動を載せたりもしました。おそらくみなさんの感じていた通りの茶目っ気のある親父だったと思います。名前も知らないおっさんのことを、とても身近に感じてもらえたというのは、とても不思議に素敵なことでした。
友人を連れて行くと、必ずと言っていいほどカレーを食べさせようとし、一万円を渡そうともしました。兄貴がお嫁さんを家に連れて来たとき、裸でお風呂から出て来て、兄貴に本気で怒られてました。
 父の写真以外にも、ギャラリーで個展などをしているのですが、以前、自分の写真のつまらなさに悲しくなって、写真を辞めようかと考えました。結局心を入れ替えて頑張ろうと思ったのですが、それは初心に帰るということでもありました。本当はそこで撮りためていた写真を一度すべて捨てるべきなんですが、後々のために発表しておこうというズルさから、一気に発表しました。作品ごとに違ったコンセプトで撮っているのですが、そういったアイデアは、昔はメモしていたんですが、メモをとっておかなくても覚えているアイデアこそ本当じゃないかと考えて、メモをとらなくなったのですが、これは失敗でした。僕はテレビがCMに入ると、何を見ていたか分からなくなることがあるくらい忘れっぽいので。何年か前は、毎日の自分のう○こを撮っていたこともありました。これはデジタルパパスのように、毎日アップしようと思って、1年以上撮ったのですが、結局発表しませんでした。あとは、ある日、飴の包みってけっこう道とかに落ちていることに気がついて、よく見てみたら、なんだか黒飴の包みばかりが落ちているように感じたんです。これは確かめなくてはと思い、飴の包みが落ちているのをみつける度に写真に撮って、包みも拾ってファイリングしていました。そうするうちに、黒飴の比率が高いのには理由があることに気がつきました。ひとえに黒飴と言っても、たくさんの種類があったんです。あと、黒飴には包むタイプのものが多いんですね。これも一年以上続けましたが、写真をまったく工夫せずに撮っていたのもあって、ボツにしました。ボツになるにしても、とりあえずは試してみることが多いですね。
 父の写真について、土田ヒロミさんと対談(http://www.recruit.co.jp/GG/compe/neodoc/2004/tamura/docu_taidan_tamura.pdf)したとき、批評的な視線で親父のことを見ているのかと思ったら、実際は愛に包まれたところから視察しているんだねと言われました。写真でもなんでも、見るひとによって受け止め方は違ってくる。感じ方は人それぞれで、僕は納豆は嫌いなんですが、好きな人もたくさんいます。それはすごく当たり前のことなんだということを踏まえた上で、それでもより多くの人に伝わる写真をつくるにはどうするか、とても難しいです。写真をやっていない友人を本屋さんに連れて行って、いろんな写真集を一緒に見たことがあります。ところが、写真集を何冊も見ても、一向に彼の好きな傾向すら読めない。ダイアン・アーバスの写真集を一冊丸々見てもそれがフリークス(奇形)を被写体にしていることにすら気がつかなかった。それまでわかりやすい作品を作れば、興味を引くことはできると思っていたのだけど、実際のところ思っていた以上に写真というのは理解されにくいんだ、と実感しました。もっと普通に、エロ本を見て、このおっぱいでかい!とか、そういった素で見ればいいのに。どういった写真であれ、自由に感じていいんだということを分かってもらいたいという思いはあります。でもそうしたら、大部分の人たちは表現としての写真を「つまらない」の一言で片付けてしまうのでは無いかという不安もあります。実際、僕が絵画を見ても、すごいとか、きれいとか感じても、わざわざ見に行きたいかと言われると、そうでは無いからです。
 「面白い」と「つまらない」については、どういうことなのか、常に考えています。例えば「おいしい」「まずい」は人それぞれでも、「あまい」や「からい」はみんな同じに感じるはずです。だからと言って「あまい」だけのものを作っても、ただのあまいものになってしまう。どうしたらいいか正直悩んでいます。たとえば直方平ひろとさん(http://www.interq.or.jp/neptune/oan88/)は路上の塀や柵、家の壁とか、僕たちの普段いつも目にするものを延々と撮りつづけてます。僕は見馴れたものだからその写真自体に、特別な感情は湧かないのですが、それをあまり見たことの無い外国の方とかが見たら、また違った感想を持つのではないか。逆にインドの青年が、自分の町の道路の脇ばかり撮ってWebにアップすればきっと面白いと思います。少なくとも僕は、インドや、イラク、僕の知らない町の道の隅にがどうなっているのか、とても興味があります。それとは別に、日本で夜中に路上を歩いて落ちているモノを撮ったりしてる写真とかも、50年後に見ればまた違った面白さが味わえると思います。

 昔の人たちは、写真の登場に大きな衝撃をうけたと思います。そしてデジカメの登場で価値観がまた少し変わったのかもしれません。でも、もうそれも過去のことです。デジタルであれ、銀塩であれ、写真の素晴らしいところは、「今」を「過去」として保存できるということ。今撮らなければ、写らないのです。今撮るということが、何よりも重要だと思います。作品としての写真に興味の無い人でも、みんな、どんどん家族の写真を撮りましょう。家族のアルバムこそが、一番の「面白い」作品であるはずです。