1月29日から2月14日までの日記

1月29日(日)

家にたどりつく早朝、さすがに疲れて、いくらか長めに寝た。
親父の荷物や、薬や、栄養補給ドリンクや、いろいろ用意、用事を済ませ、病院へ。やはりしんどそうではあるが、病院にいるということで、いくらか安心もある。ずっと居てもしょうがないので、せっかくだしと病院の近くのホームセンターニトリへ。すげえ楽しい。目当てのスチールアングルは無かったけれど、いろいろたくさんあって、楽しい。
夕方、仕事が早く終わった彼女が心配して来てくれた。オリンピックでちゃんこ鍋セットと豚肉を買った。
兄貴と電話して、まあ大丈夫だと思うけど、翌日来てくれることに。

1月30日(月)

病院へ行き、しばらくすると兄貴も到着。次の日に先生が診察するとかいう話で、お昼過ぎに僕は事務所へ。仕事を終わらせ、もうそろそろ帰ろうかという16時くらいに兄貴から電話。元気そうに見えて親父が予想以上に悪い状態だという。いそいで帰るも、電車の乗り合わせが悪く、もどかしい。17時過ぎに東大和病院に着き、T田先生の話を兄貴と聞く。
CT検査の結果、心臓のまわりに空気がたまっていることが判明、非常に危険な状態であること、処置の施しようの無いこと、Gんセンターへの受け入れが可能であること、そのかわり搬送にはとても危険が伴い、搬送中に死ぬかもしれないということ。
よく相談して決めてくださいということ。
僕と兄貴は最上階の喫茶室へ行き、話した。
先生は搬送に2時間と言っていたが、救急車だし、そんなにかかるとは思っていなかった。このままでも、三日もつかどうかという状況で、死を待つことよりも、たとえ危険でもこれまでお世話になったGんセンターで治療させてやりたいと思った。親父の意識はしっかりしていなかったが、築地に行けるというと、行こうと言った。
救急車の中は、予想以上に揺れた。僕も兄貴もすごく不安になった。けれど、親父は搬送くらいでは死なないとなんとなく思ってもいた。一時間10分、築地のGんセンター中央病院に到着した。まず、第一段階のクリアだと思った。兄貴と共にけっこうな達成感。
Gんセンターは兄貴は初めてで、その設備に感動していた。案内された部屋は個室で、H大和病院とは比較にならないほど広い。「これだけで来てよかったね。」と兄貴。
救急車に付き添ってくれた先生は、緊急外来のときに見てくれた先生だった。医者はいつ寝ているのだろう。
築地に着いてすぐ、Y雄おじさんとMリ子さんが来てくれて、驚いた。4人にA塚先生という武田慎二似の先生が説明してくれた。
ようするに、とても危険な状態であるということ、癌がどうのという問題の前に、今は生命を保つための治療をしなくてはならないということ、心臓の空気を抜くということも可能かわからないということ。でも、できる限りの治療をしましょうということ、最終的な希望は、身体を丈夫にできたら、手術にいけたら、というかすかな希望。兄貴が来てくれて心強かった。おじさんが来てくれてすごく楽になった。でも来るなりおじさんは泣きすぎるから、僕も兄貴も泣いてしまった。
とにかく絶飲絶食、絶対安静が大事なので、動いたり暴れたりしないように、薬で眠ってもらったほうがいいということ。そのまま永眠してしまえば、もちろん親父と話すことはできない。けれど今は親父の意識もはっきりはしていないセンモウという状態らしい。でも僕は親父はこんなもんだという感じもするし、そこまででも無いんじゃないかとも思うけれど、とにかく話はなかなかかみあわないし、苦しそうだし、無理に話をしてもらうことも無いし、なにより回復を望んでいる。
帰ったはずのY雄おじさんが、Sみえおばさん、Oりえさんと再登場。
僕と兄貴が病院に泊まった。ベッドがひとつしか借りれず、兄貴は食堂で寝た。僕は親父の横で、なかなか眠れなかった。兄貴は食堂が寒かったらしい。

1月31日(火)

静脈カテーテルを午前中に入れて、一時に心臓のまわりの空気を抜く穴をあけた。40分で無事手術成功。二つ目の達成感。
お昼に彼女がパソコンを持ってきてくれて、仕事を終わらせることができた。
今午後8時40分、A塚先生、K藤先生、と女の人が来て、状況説明。思ったよりもいい状態らしい。とは言え、急変もまだまだあり得る。今週一杯くらいはこのままの状況だろうけれど、意識の戻すことはできそうだという。親父も寝ているだけでなくて、頑張っているのか。
夜、福島から叔母夫婦とその兄夫婦が来てくれた。

2月1日(水)

親父がよく動く。起き上がろうとしたりする。ドルミカムの流量を0.2から0.3に上げた。でもまだ起き上がろうとする。
叔母夫婦とその兄嫁が来てくれた。彼女が着替えを持ってきてくれた。
夜、親父は死んだ目を開いて起き上がろうとするので、またドルミカムを0.5に上げる。夜の間だけ一時的に高めにと言っていた。ドルミカムをドリムカムと思っていた。ドリームがカムでドリムカムか。

2月2日(木)

親父があんまり動くので、睡眠剤の種類を変えることに。コントミン。昏と眠なのか。兄貴と「親父が起きたら見せよう。」と、親父の股間にアイスノンを乗せて写真を撮った。でも、この時は親父にこの写真を見せられるとは思っていなかった。親父のしぶとさはかなりのものなのか、コントミンもあまり効いていないよう。結局この日も目が離せず、兄貴と交代で寝た。

2月3日(金)

早朝親父が目を覚ました。寝ぼけているのか、なんなのか解らないが、また親父と話せるとは思っていなかった。そして結局昼間は起こして、夜にきちんと寝てもらうことになった。
親父は食道に心臓の膜まで貫く穴が開いている訳で、絶飲絶食。水すら飲んではいけない。起きてそうそう、水をよこせと殴られた。結局今もH大和病院でかじったリンゴが最後に食べたものになっている。
親父は、自分がどこかの怪しい催眠療法の施設に連れてこられて、モルモットにされていると本気で疑っているようだった。「おい、ここが本当にGんセンターか調べる方法があるんだろ?」と、小声で僕らに言ってくる。ベッドを起こし、外を見せると、ようやく納得したようだった。浅い眠りをくり返し、起きて自分に繋がるたくさんの管を見て、「嘘だろ、治ったって言ったじゃーん!」と言っていたのは、さすがに辛かった。このころ、たくさんの夢を見ていたようだ。「先生、私の言いたいことは、世界に負けないこと。宇宙に負けないこと。自分に負けないことです。」と、僕に言っていた。
亡くなった人の貯金はしばらくおろせなくなるらしいので、僕は一度家に戻り、郵便局でお金を下ろした。親父に聞いた暗証番号はちょっと入れ違っていた。銀行でもおろそうとするも、聞いた暗証番号が二つとも違って、3回間違えたら、「このカードは使えなくなりました。」と、カードが吸い込まれた。

2月4日(土)

Y雄おじさん夫婦が来てくれた。起きている親父を見て、またおじさんは泣いていた。親父も弟に会えて嬉しいのか、かなり饒舌におしゃべり。とは言え、水も飲めないので、カツゼツが悪い。口の中を湿らせることしかできない。けれど、自分が水を飲んではいけないということも理解し、これまでの様にずっと見ていなくても大丈夫だ。と言っても、うちの親父のことだから、油断はできない。
僕は少し中野の事務所へ仕事をしに行き、また築地に夕食を買って帰った。兄貴と僕は、ずっとコンビニとかの弁当とかを食べている。一日三食食べて、早寝早起き、運動不足。

2月5日(日)

親父はだいぶ身体を動かせるように。僕が買ってきた霧吹きも、気に入ってくれたみたいだ。この日も築地から事務所へ。でかける度にたくさん買い物をして戻ってくる。こんなときはルルイパックを買っておいてよかったと思う。
親父が一番食べたいものは、トマトらしい。

2月6日(月)

親父が立った。ひさしぶりにシャンプーまでしてもらった。こんなに元気になるとは正直予想外。病気が治ったわけではないのだけれど、体調だけは元気です。あと口が乾くけど。兄貴はずっとゲームしてます。

2月7日(火)

親父はCTスキャンへ。僕は事務所へ寄ってから、家に戻り、市役所へ高額療養費の申請へ。そしてすぐまた築地へ戻る。
親父と兄貴といつものように騒がしく言い合い。もはや親父の有り難みも何も無いくらい元気だ。親父と兄貴は似過ぎているので、いつも言い争いになる。
夜、兄貴が撮ってきた赤ん坊のムービーをパソコンで見せた。親父が泣いていた。孫の写真を見せた時、「世界で一番愛しいものだ。」と言っていた。もはや僕らでは無いのか。

2月8日(水)

朝、兄貴が沖縄へ帰った。僕の彼女が来てくれた。親父の兄貴の奥さんが来てくれた。
事務所へ行き、仕事。ハットの日で、Y島さんとI守くんとS々木さんとピザを食べた。食べきれないとことにO塚さん登場で食べてもらう。でも同じ種類のピザが残っていて、申し訳ない。
この日から、うがい。

2月9日(木)

事務所にて仕事。ちょっと普通に忙しくなってきた。ので、夕方に病院に戻り、自分を追い込んでみる。貸し出しの布団が明日までなので、親父も元気になってきたし、この日が病室に泊まるのは最後になるだろう。
熱がいつも38度くらいあるので、今週様子を見て、来週にでも、できれば食道の潰瘍部分の穴を塞ぐために、管を食道に入れる処置をできればというところ。手術はやはり難しいらしく、いわゆるクオリティオブライフのための処置ということだろう。でも、それができれば、親父の念願の水を飲むことができるのだ。

2月10日(金)

車椅子に乗って、病院内を少しだけ散歩。窓辺でひなたぼっこ。少し咳きが気になる。熱も下がらない。でも元気だ。

2月11日(土)

彼女と病院へ。しばらく居て、帰る前に体温をはかってもらったら、一瞬の41度越えにびびる。「親父、こんな体温じゃあ精子が死んじゃうよ。」それは困ると、氷漬けにして、しばらく様子を見るも、らちがあかないので事務所へ行き仕事。

2月12日(日)

病院へ行こうと地下鉄に乗っていると、途中で乗って来た誰かに肩を叩かれる。誰かと思ったら、中学の同級生のSぎ。いやあものすごい偶然だなと思ったら、親父の見舞いに来てくれるところだった。なんていい奴なんだという感動を隠しつつ、久しぶりの友との会話に心洗われる。病院の最上階でランチ。スーパーバイザーにおごってもらう。
親父は普通に座って新聞を読んでいた。けれど熱は高い。38度5分。

2月13日(月)

1階で親父に日経新聞を買い、無料の水を買って、病室へ行くのが日課になりつつある。病院で洗濯。僕の服も一緒に洗う。Sみえ叔母さんが来てくれた。

2月14日(火)

病院へ行くと、Y子叔母さんと、M子叔母さんが来ていた。どうも泣いていた様子。親父が酸素マスクをつけている。聞くと、昨日僕が帰ってから、タンがかなりからんでいたという話だけれど、多分咳きのことだと思う。今日叔母さんたちが来た時には、もう処置をしているところだったそう。処置とは、胸腔ドレーン挿入。ようするに、肺に貯まった水を抜く管を胸に穴を開けて挿れていた。見ると、水が1000cc以上タンクに出ていた。肺の水がほとんど無くなったと聞いていたのだけれど、高熱などで弱って、また増えたということなんだろうと思う。
Gんセンターに運ばれた死ぬ間際に比べたら、良い状態なはずだろうけど、さすがに一時的にかなり元気だったので、今の呼吸の苦しそうな状況を見ると、ちょっと辛い。